フォーカス

目を瞑って周りの会話をボーッと聞いていると、日本語が外国語のように感じる。金曜日の終電、車内はいつもより賑やかな声で溢れている。「外国人にはこうやって日本語が聞こえているんだろうな〜」と思いながら、それを感じるという遊びをする。少しでも意識を集中してしまうと、それは言葉に聞こえてしまう。程よくボーッとするのは、意外と難しい。

目を開けると、光の鋭さにやられる。いつもの明るさがとても眩しい。朝から晩までPCと見つめ合う生活で、一週間の中で、目の疲れが最高潮に達しているのがこの瞬間だ。焦点を合わせることにも、人間は体力を使っているみたいだ。

日本語が外国語のように聞こえている状態っていうのは、目のかすんでいる状態と同じことだろうか。ピントが行方不明になっている状態。ん?耳にも被写界深度ってあるのかな。なんだかよく分からないけど、この視界がボケた状態すらも今は楽しい。

たまには、ピンボケも悪くないのかもしれない。

まわりながらまわって、まわってる

働くとは何だろう。


生きるためには、働かなければならない。生活のため。
そもそも、生きるって、何なんだろう。
私はどうやって生きていきたいんだろう。

 

決して、暗い気持ちになっている訳ではないけれど、多忙で何かを見失いそうな気がしたので、思考のメモも兼ねて文章に残すことにする。

 

働くとは何か。

 

「自分や仕事仲間、その家族が豊かに生きていくために、人や世の中を豊かにすること。」
つまり、「人々が“お互いに”より良い未来に向かって、豊かに生きていくための手段」が、働くということなんだと思う。

その、「人を豊かにできた証」がお金。
そうでないお金もあるとは思うけれど、
技術やサービス、モノなどを提供して、信用を得る。これが働いて得るお金。

 

“豊かさ”には色々ある。美味しいものを食べたりモノを買ったり、お金を使うことで得ることのできる豊かさもあれば、仕事で得る達成感、知識や技術、人との繋がりもそうかもしれない。健康に安心して生活できること。趣味にあてたり、家族や友人と過ごす時間を持つこと。新しいモノを観たり体験する事もそう。そして、それらがまた仕事にも活きて、良い循環になることもある。人によっても様々な豊かさがある。贅沢ではなくとも、人間らしい豊かな生活を送ることが、生き甲斐や幸福に繋がる。未来に向かって生きていける。お互いに豊かに生きるために、人々は働いている。

 

でも実際はどうだろう。

 

仕事に見合った収入、プライベートの時間、健康的な生活は送れているだろうか。
カタチだけでなく、本当に人のためになっている仕事が出来ているだろうか。
質ばかりを求め、利益やその他の事を疎かにし、プロフェッショナルを勘違いしてはいないだろうか。
職場の仲間や取引先、下請けに無理を押し付けてはいないだろうか。
その無理を安易に引き受けてはいないだろうか。
売上やプライドのために、誰かの健康や時間を奪ってはいないだろうか。
本当にその残業は必要なのだろうか。
お金を払っているからといって、誰かの豊かさを奪っていないだろうか。

 

人々は働くために、どれだけの豊かさを諦めているんだろう。生きるために働く。働くために、色々な事を諦める。それが当たり前、それが責任を持つことだという風潮もある気がしている。では、いったい何のために生きている? 何が残る? そこまでして自分のために働いてる人達がいる事を、どう感じる?

 

もちろん仕事が生き甲斐で、収入が少なくたって、睡眠を取らなくたって、元気でバリバリ質を求めて働ける人もいるだろう。ただ、それを当たり前にして良いのだろうか。

毎日満員電車に乗るたびに、あ〜、こんなに人がたくさんいて、こんなにたくさんの人が生きている。皆何を思いながら仕事に向かうんだろう。と考える。

 

働くとは何か。

この答えは人によって違うと思うけれど、「人々が “お互いに”より良い未来に向かって、豊かに生きていくための手段」という事でないのなら、私は何のために生きているのかを見失ってしまうし、人間って何なんだろう、地球って何、宇宙って何、この世界はいったいどうやって出来た? 私の存在意味不明! といった具合に深夜のダークモードに入ってしまう。

 

考えすぎなのか。いや、私が頭たりてないのかもしれない。

豊かさとか求めてるのが違うのかもしれない。
かもしれない。

 

ぐるぐるぐるぐる。

 

地球とか太陽系とか銀河系って、まわりながらまわって、まわってるらしい。螺旋状に。DNAも螺旋だっけ。螺旋で出来た螺旋で出来た螺旋で出来た螺旋の一部を動いているっていうのは、いったいどういうことなんだろうね。いったいどこへ向かっているんだろう。